創業の想い

現在、都市開発が進められる中、町田も50年前とは比べものにならないほど、街の風景は一変しました。
当時は、このくに作がある場所が森野という名の通り森が生い茂る、緑溢れる何もない地域でした。
今では、「町田に来れば、何でもそろう」と言われたり、「まほろ駅多田便利軒」でも題材になったように、ただただ便利な街となりました。
その一方で、昔からの家は、どんどんマンションや駐車場へと変わっていきました。
父の世代から続く、この昔ながらの庭をなんとか、残したいという気持ち、また、昔から愛されてきた日本食を大事にしていきたいという想いから、
2014年6月、そば処くに作を開店するにいたりました。
昔からこの「くに作」の家は、多くの人が出入りする家で、時には和歌の会や、お茶会、時には会議室の場、親戚一同の終結の場として使われてきました。
今後は、そば処として、多くの方にお越しいただき、お蕎麦とお庭を堪能していただければ、この上ない喜びでございます。


そば処「くに作」の由来

 
和風庭園を愛でながら、味わう本格十割板そば
 
「町田にそば屋あり。そば屋はくに作と呼ぶ」を目指して
 
「くに作」の名前の由来は、明治45年、町田市木曽で生まれ育った石川国作の名前である「国作」から取りました。
所帯をもった国作はこの森野1丁目の敷地に居を構え、平成3年に83歳で亡くなるまで「土地」を愛したエキスパートでした。
東京都の役人として戦前戦後、農地改革に携わり、その手腕を東急電鉄の創始者五島慶太にかわれ昭和34年に東急電鉄に入社。
五島慶太の夢であった東急田園都市線、伊豆急行の開通に尽力をつくし、その陣頭指揮をとり、成功裡に導いた人間でした。
「土地の整理は人の整理」というのが口癖で、多くの部下たちを育てた石川国作は、83歳で亡くなるまで生涯現役でした。
町田市の都市開発ばかりか、町田市役所でも数々の役職を兼任し、唯一の趣味は自宅の庭いじりでした。
内助の功として夫、国作を支えた茶人の妻、美和子も生涯こよなく自宅の庭を慈しんでいました。
そんな二人の思いが込められた庭をみながら、十割板そば「くに作」で美味しいそばを堪能していただければ幸いです。
 


2014年5月
代表 石川康子